調査・研究レポートReport

投稿日:2019年4月1日

私の人生の軌跡|自分に正直に生きること

元号も変わったことですし、良い機会ですので私の成長の軌跡を少したどってみたいと思います。

決して褒められた生き方でもないし、失敗ばかりの馬鹿野郎な人生をかなり歩んでいますが、平坦な道でもなくとても凸凹した道です。この文章は自分と同じく人としての人生に迷いながらも、もがきながら必死に自分の進むべき道を模索している方に読んでいただきたいです。

第一次成長期/自分に正直に生きた最初の15年間

三重県熊野市新鹿町という海と山の間にある小さな田舎町に生まれた私は保育園から小学校までの9年間は学年の人数が8人ですべてという小規模な世界で生活していました。

中学校にあがって隣町から1人増えても全体で9人。小規模な学校の良いところは一人一人に目が行き届くところです。おかげさまか私の学力は図工と家庭以外は5段階評価のうちの5をすべていただけるほどで、それなりに優秀と言えたと思います。部活は人数が少ないのでテニス部しかなかったのですが、地区大会の個人戦においては新鹿中学校で1位と2位を独占したこともありますし、団体戦も優勝、県大会まで行くと3回戦くらいで負けてしまうのが私たちの成績でした。もう一組は県大会も優勝していたりとそれなりに優秀な成績を残していました。

中学校卒業時の担任の先生から言われた言葉で印象に残っている言葉は「お前たちは仲が良すぎた。もっと色々と問題を起こしてもよかった」ということでした。中学生時代に経験すべき問題に直面せずに時間だけが経過してきているという意味で高校時代が非常に刺激的すぎる3年間となったわけです。

第二次成長期/自分を騙して生きた9年間

カルチャーショック、9人から320人の世界へ

高校に上がると学年9人の世界から320人の世界まで一気に増えて、カルチャーショックを受けることになります。

友達の作り方がわからない。周囲の目が気になって勉強に集中できない。人間関係ができていない状態から関係を育てていく方法がわからない。といった中学校時代までに学べなかった困り感に苛まれながら地獄のような3年間を過ごすことになります。

部活は吹奏楽部でしたが、先輩のトランペットを勝手に吹いてみたり、親切心でダメ出ししたつもりがお前に言われる筋合いはないとなって周囲から冷たい目で見られるなどなど、まぁ普通に考えてあり得ないことをやっていたと思うし、冷たくされて当然のことをしていたと思います。一言で言えば問題児でした。

試験では赤点の常連、完全に落ちこぼれ

クラスでの勉強においては、始めて授業中に寝ている人がいるという現実を真に受けてとりあえず自分もなんとなく寝てみたくなって真面目に授業を受けずに寝ていたら本当に勉強が出来なくなってしまいました。数1数Aの時点で数学では赤点を取り始めていましたし、日本史で一度だけ1桁の点数を取ったのも覚えています。それほど勉強が出来なくなってしまいました。「人間は精神状態が良くないと力が発揮できない」ということを身をもって学ぶことになります。

心の支えは音楽

心の支えは音楽だけでした。吹奏楽部に入っていたのもありますが、選択音楽の評価だけは5段階評価中の5をいただくことができており、それだけは自信につながる部分で、そこが否定されると本当に自分に自信が持てる部分が1つもないという状況。そんな中進路相談で芸大に進学するという道を決心して2年生の途中からソルフェージュや声楽のレッスンを受け始めることになりました。

ただそんな精神状態なのでチカラは全く発揮できないうえに表面だけ見ればモチベーションも0に等しい状態です。最初に師事した先生はそんなのお構いなしで私のモチベーションを評価した結果私を破門にしました。次に師事した先生は名古屋芸術大学の音楽教育科の教授の息のかかった先生で私を温かく育てて頂けた結果、無事に名古屋芸術大学に進学することができたわけです。

その当時は勉強は全くできなかったから面接試験だけでパスできると言われて飛びついたOA入試なるもので試験をパスしました。高校卒業時の卒業文集に残した私の言葉は「大学デビュー」。この言葉は本当につらかった高校生活に決別するために、本当の意味で絶対に高校時代の失敗を取り戻すといった心意気で綴った決意の言葉でした。

大学デビューを無事に果たして徐々に精神状態が回復していった4年間

大学に入って一番最初に心に決めていたことは高校時代に失敗した友達作りで成果を出すということ。自分から進んで同期の学生に声をかけまくった結果、徐々に友達関係を築くことができ、普通の大学生活をスタートさせることが出来ました。

1年生の前期に履修していたスポーツの授業で一目ぼれした女性に7月にピアノ練習室で告白して無事OKを頂けた頃が本当に幸せの絶頂期かもしれません。その時の彼女が現在の嫁さんです。嫁さんに出会ったのが私が18歳の頃で現在が34歳なので、かれこれもう16年も人生を共にしていることになります。

名古屋芸術大学という学校は勉強ができる学校でもなかったし、私が所属していた音楽教育科も実技のレベルは決して高いものではありませんでした。そのため私の学年では声楽もピアノも実技の成績は常にトップで4年間を過ごしました。ピアノはショパンのエチュードやプロコフィエフのソナタなどを演奏する程度のレベルで、声楽は4年間でオペラ5本に出演しました。現在も合唱団やオペラ協会に所属して続けています。この流れを維持したまま社会人として学校の先生になることを果たします。

地獄の学校教員生活、どん底再び

「うちは両親が学校の先生だから私も学校の先生になりました。学校の先生になりたくてなったわけではありません。」みたいなクソ生意気なことを普通に職員室で宣言しちゃうばかっぷりで、周囲からの評価は最悪なスタート切りました。大学生活が好調だったせいか、調子に乗ってしまっていたんですね。

そんな私なので、先生方からの支援もうまく受けられない状態で行き詰っていたところに同じ学年担当の1年1組担任のK先生が私に言い放った言葉は「社会人になったら誰も教えてくれないから自分で勉強しなきゃダメだよ」です。そういいながらコーチングに関する書籍を机から取り出して見せてくれました。

この時に初めて書店で自己啓発本のコーナーを訪れた私の目に留まった書籍は「心のブレーキのはずしかた」という書籍でした。

人生を変える!「心のブレーキ」の外し方

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その他には、以下のような書籍も面白いなぁと思いながら読んでいたのを覚えています。

気づかれずに相手を操る悪魔の心理術 パワープレイ

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こんな怪しげな書籍でも当時の私にとってはかなり衝撃の内容でしたね。この頃は学校の先生ということもあって、自己啓発、心理学、脳科学、コーチング、ファシリテーションといった人の心と人のマネジメントに関する分野を中心に学んでいました。

さて、少し脱線しましたが、そのK先生が本当にすごい先生だったんです。職員会議では校長を論破して全部自分の思い通りに議論を進めていくと思わせつつ、そそくさと職員会議なんて無意味と言い放って自分の部活の面倒をみるために外に出ていってしまうような一匹狼っぷりを発揮していましたが、部活では県大会優勝の成績を残していましたし、担任のクラスは軍隊式でびしっと学びの姿勢を子供たちに強制しきる力強さ。事務職員の先生への根回しも完璧で部活の予算も他の部活よりも多く回してもらっていたような印象です。ビジネスマンにしてみれば「出来る人」代表みたいな感じの人でしたが、そんな人にはこれまでに出会ったことがなかったので私はもうその先生にくぎ付けになってしまいました。

自分の担当教科である音楽についてはうまく行くはずもなく、年始のタイミングで一度リタイアしかけたのですが何とか復帰して3月まで勤めぬきました。図工の講師の方は途中でリタイアされたりと色々と刺激的な環境だったのもあったし、子供との関係をうまく保つことができなかったということもあるし、更には先生方との関係もうまく保てなかったのもあって、津の教育委員会から四日市教育委員会に逃げた結果行き着いたのが翌年の四日市市立桜小学校という小学校でした。

桜小学校でもK先生の真似をしようと試みたのですが全然うまく行くはずもなく、そう簡単に真似なんてできないのだということを悟ります。勤務態度もあまりよくなかったのもあるし、最終的には校長から「クビ」という言葉ではなかったものの、事実上のクビ。「田舎へ帰りなさい」という言葉をいただくことになりました。

プログラマへの転職を決意

そもそもなんでこういう事態になっているかを考えてみれば学校の先生をしていること自体が間違いであることにこの時初めて気が付きます。「ゲームが作りたい」という自分に素直になったのは良いものの、業務系とかウェブ系とかゲーム系とか考えられる頭も持ち合わせておらず、とりあえずプログラマになりたいという気持ち一つで後がない自分の鼓舞しながら就職活動を初めて行った結果、三重県鈴鹿市にある小さなウェブ系のシステム開発の会社の社長に拾い上げて頂けることになります。

転職が決まったことを校長に報告したときの校長の驚いた表情はものすごく鮮明に覚えています。こんなクズ野郎が転職できるわけがないとタカをくくっていたのでしょう。目を真ん丸にしてものすごく驚かれていましたね。

そこからの最後の仕事が卒業式における6年生の合唱の指導でした。最後の最後と決めて、全力で指導した結果、大合唱で卒業式を終えることが出来ました。初めて教職における全力を発揮した瞬間です。

第三次成長期/徐々に自分を取り戻しつつ生きた10年間

ITの知識も経験もゼロからのスタート/持ち合わせは元気だけ

この時ITに関する経験や知識はゼロの状態でした。私を選んでもらった理由を後に社長に聴いたところによると「元気そうだったから採った」ということでした。その時の私には「元気」以外何もなかったので本当にそれだけで勝負するしかなったのです。そして生活のためにも後がないので本当に必死でした。

情報処理技術者試験をはじめとしてIT系の資格取得を通して勉強を重ねた日々

三重県鈴鹿市にあるウェブ系のシステム会社に転職が決まった私がまず最初に考えたことは「学歴がないからきっと馬鹿にされる。馬鹿にされないようなライセンスを取得するんだ。」ということでした。インターネットで色々調べていたら情報処理技術者試験という試験があることを知ったのが、桜小学校赴任中の2月で、4月に開催される春の試験に向けて学習を始めました。

4月になって新しい職場に移ってからも20時まで会社で仕事をしたら帰ってきて寝るまで試験の勉強をするということをひたすら繰り返すだけの毎日。結果、プログラマーとしての半年の実務経験と約8か月間の学習経験によって秋の試験で基本情報処理技術者に合格します。そのまま上位の応用情報技術者の取得も考えましたがウェブ系の会社ということもあって、まずはHTMLやCSSの勉強をひたすらに始めていくことにしました。この時に学んだ最初の書籍は「ウェブ標準の教科書」という分厚いXHTMLとCSS2に関する書籍でした。


ウェブ標準の教科書
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その他にもリファレンス本も最初から最後まで目を通すということもやりましたね。リファレンスに目を通すと知らないHTML要素が出てきたりするのでウェブ系エンジニアは確実にやっておいた方が良いと思います。


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時代はまだXHTMLの時代でしたが、この学習をベースにしてウェブデザイン技能士という資格が作られたことを知ってそちらを受験することにしました。すぐに3級は取得でき、約3年間務めたその会社を辞める半年前(2年3か月時点)で2級を取得、そのまま応用情報技術者やOracle認定Javaプログラマ(OJC-P)などを取得しました。この時JavaはまだSE6の時代です。その他共用としてLPIC(Linuxの資格)を勉強してみたり、色々とかいつまみながら学習を継続していくことになります。

ゲームプログラマになる夢はいつしかITコンサルタントになることに変わっていた

情報処理の勉強を進めていくと企業経営の面白さというものに触れる機会が増えた結果、ITコンサルタントというものにあこがれるようにいつしかなっていました。コンサルティングファーム(この時目標に定めたのはアクセンチュアのBPRコンサルタント職)への転職を目指してキャリアアップするために業務系の会社への転職を決意します。同時に、中小企業診断士の資格を取って独立を果たすんだというくらいの気持ちを込めて名古屋の専門学校に土日を使ってスクーリングも始めることになります。

そして転職した先が三重県津市にある300名規模の独立系SIer。初めて業務系のシステム会社というものに触れることになります。

大手半導体工場勤務で体調を崩す

この頃は自分を見失うくらい業務にも自分の勉強にも全力を投じていました。昼休みや終業後は全時間を読書などの勉強に投入、土日はスクーリング、スクーリングの無い休みの日は喫茶店で読書みたいな家庭も全部捨てるくらいの気持ちで全力で勉強していましたね。ただやはり人間には限界というものがあるのです。1年ほどこの状態を継続したところで体調を崩して失速することになります。

本社勤務で再びの助走期間

そのまま本社に戻されて総務兼社内SEみたいなポジションで約3年間経験を積むことになりました。この時経験したことは社内の業務調整や社内システムや自社ホームページの関連など、多岐にわたっての経験を積ませていただきました。当時の本社社員の全員の名前と顔が一致するように覚えたのもあるし、ビジネスにおける人とコミュニケーションの基礎を当時の上司から丁寧に教えていただきました。

体調を崩したこともあって、勉強をするということはいったん完全に忘却していましたが、徐々にペースを取り戻してきて2年ほど総務部に勤めたタイミングで最終的には社会保険労務士の資格を取ろうと何を思ったのかスクールに通いだすことになります。業務中心で余裕のできた時間を利用しながらスクールに通いつつ、大量のテキストに一通り目を通したタイミングで「これは自分のやりたいことではない」ということを把握して事務職をやめることを決意します。

やっぱりウェブがやりたい!という気持ちが徐々に強くなってきて三重県四日市市にある広告デザインの制作会社に転職を決めました。このタイミングでWordPressの経験は全くの0の状態でしたし、Schooで大串さんのWordPressの講義を一通り受講して書籍を2冊ほど読んでからのウェブエンジニア復帰を果たしました。

この時学んだWordPressの書籍は以下の2冊。

基礎からのWordPress

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WordPress Web開発逆引きレシピ

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全体を流れるように理解しやすく書いている書籍よりも網羅的に書かれているリファレンス本みたいなものが本当のところはおすすめです。一冊は全体を把握するための書籍を導入書として読んでもいいとは思いますが、そういった書籍は間をかいつまんでいるため細かいところに手が届かない傾向にあります。そういう細かいところを埋めてくれるような書籍を選んで読むのが個人的にはオススメです。

ウェブエンジニアからアナリストとしての職域へも拡大

当時その会社におけるエンジニアは私一人の状態でしたからシステムっぽい仕事や少し難易度の高い仕事などは全部私のところに回ってきては、それらを解決するといった仕事の仕方をしていました。もちろん平常業務としてウェブサイトのコーディングも行ってはいましたけどね。WordPressの経験を重ねるごとにWordPressのパフォーマンスを知ることになって、そこからは幾度となく大量のWordPressのサイトを構築してきました。

同時にマーケティングテクノロジスト的なポジションの仕事も並行していました。Googleアナリティクスを用いたアクセス解析の支援としてレポートを生成するための仕組みを構築したり、Googleアナリティクスの初期設定を行ったりとほぼすべての技術的な仕事は私の仕事でした。この時の経験が現在の基礎になっています。

そして、この広告デザインの会社にも2年ほど勤めたタイミングで念願の独立を果たすわけです。

この時学んだ書籍は以下のようなものです。Googleアナリティクス個人認定資格(GAIQ)なども取得しました。

Googleデータスタジオによるレポート作成の教科書 ~成果を上げるWeb解析レポートを徹底解説~

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マーケティング/検索エンジンに強くなる Google Search Consoleの教科書

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フリーランスのグロースハッカーとして仕事を始めてみると見えてきたこと

正直独立の最大の理由はお金でした。会社員時代の給料では毎月マイナスという状態で貯金も底をつき親からお金を借りて生活しているような状況になっていました。嫁さんともお金のことでぎすぎすすることも多かったのですが、何とか説得して独立までこぎつけたわけです。フリーランスになってからは収益面では多少改善しますが、顧客が十分いない初期のころは非常に苦しい状態が続いていましたね。

フリーランスとして独立してからは年間約200社以上のウェブサイトの制作に携わったり、大手印刷会社内でのウェブデザイナーとして働いたこともありました。大手のプログラミングスクールの講師として働いたこともありましたね。

最初のころは収益が安定せずに「お金」にものすごく執着していたと思います。営業さんが間に入ることは「マージンが抜かれてモッタイナイ」としか考えられないあり得ないがめつさがありましたが、昨年の4月に融資を受けたタイミングでお金の悩みからは解放されて心に余裕を持つことができるようになりました。まだまだ儲かってはいませんが、最近はようやく収益が安定してきました。

絶対的に確実に言えることは、学生時代や学校の先生をしていたころと比べると圧倒的に毎日が充実していて楽しいということです。オンとオフの切り替えがないのはどうかと思うところもあるのですが現在は仕事が趣味になっています。自分に素直に生きた結果、周囲を全部敵にするような機会も経験をしてきてはいるのですが、確実に自分の目指すべき未来に向けて一歩ずつ着実に歩みを進めていっているという実感があります。選択を間違えることをたくさんしてきましたが、最近はようやく自分に素直に選択できるようになってきました。

プログラマに転職してからちょうど10年がたつのですが、業務経験以外に学んできたことを見返してみると以下のような状況になっていました。これは私の自信の源になっています。

ここにある書籍の数が約200冊。実家に後100冊くらいありますので10年間で合計300冊くらい頭に入れてきたことになりますね。私にとって勉強することは趣味でありライフワークです。これまで一歩ずつ着実に積み上げてきた努力の結晶です。

これまでは自分の知識欲を満たすためであったり、自分のチカラを高めるために時間を使ってきましたがこれからは周囲のために生きたいと考えています。

成熟期/誰かのために生きる時代

ライフワークは「Web/IT × 教育」の交わる領域

私の人生を見返してみると、上がったり下がったりを繰り返しながら、徐々に上昇を続けてきました。次に落ちることがあるとすればそれはおそらく取り返しのつかないレベルの間違いを犯すときだと思いますので、間違った選択をしないような生き方が今の私には求められています。

学生時代に低迷していたところから大学で上がってきて、先生時代にまた急降下してプログラマになってから徐々に上がってきたという感じなので、これからは急降下しないように自分を保ちながら「自分が磨いてきたチカラを社会のために活かす」ということをしていきたいです。

何をやるかということは非常に重要な要素の一つだと考えていますが、私の人生や家庭環境など周囲を振り返ってみると「学校教育」という要素は私ならではの要素として深く根差していることに気づくことができます。そして幼いころからのめり込んできたゲームをはじめとしたITに対しても自分ならではの領域だと考えています。この二つが交わる領域こそが私だからこそやるべき領域なんだろうなぁとなんとなく感じています。

先日の記事にも書いた通り私は情報技術の教育と学校教育の交わる部分をこの先30年のライフワークにすると心に決めています。こちらについての詳細は先日書いた記事をお読みください。

https://flares.jp/digimag/thinking-about-school-education-thinking-about-education-on-information-technology/

自分に嘘をつかないで自分に正直に生きよう

誰しもが完璧ではなく、私のような不器用な人間は周囲に敵を作ることもよくあることだし、ある時は周囲全体から攻撃されたり避けられたりすることだって普通に経験してきました。

人間は精神状態が良くないとチカラが発揮できません。能力が発揮できていない人を見かけたら原因を究明して解決してあげる必要があります。そのような人のことを「ハマっている」と私は表現していますが、ハマったときに本当の意味で自分を引っ張り上げてくれるような人に出会えるかどうかが人生の分かれ道だと思います。人生の負の循環から抜け出すことは本当には難しいんです。そしてそのようなハマっている人と交流を深めると自分がしっかりしていないと逆に引きずり込まれてしまいますので、救ってあげるには相当な強さが必要になります。

私の場合には、学生時代の堕落からK先生が救い出してくださいましたし、その若さのまま有頂天になって体調を崩してからも親身にフォローを続けてくださった当時の部長と課長や同僚の方々、そして最後に勤めた広告デザインの会社の社長さんや同僚など、私が現在のフリーランスの道に入るまでの過程において時間を共にしていただいた方々への恩赦の気持ちはいつまでも忘れません。

でも過去ばかりを振り返っていてもいけないと思います。今の私には「Web/IT × 教育」というやるべきことが明確にあるのですから、それらを実現するために全力を尽くす必要があります。そしてその結果として社会への貢献を果たせたときにはこれまでにない最高の充実感が待っていることを信じています。

最後に私からのメッセージ

私が24歳の時にプログラマとしてリスタートしたときに感じた感情を鮮明に覚えています。

「はぁ、今までの人生で積み上げてきたものがすべて無駄になった。また1から積み上げていくなんてありえない…」

と感じました。

おそらくですが、この感情は初めて大きなリスタートを果たすタイミングで誰しもが感じる感情だと思うので、この「徒労感」に負けないでください。これは年齢が若くても年老いていてもきっと感じます。この気持ちに打ち勝って努力すれば、確実に自分のつかみたい未来に向けて動き出すことができると信じています。

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